夏休みも佳境に入りましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?なんて体裁を繕うような常套句で書き始めてみた。

 

 

 

あれはいつのことだったろうか。

 

俺は自慰行為に明け暮れていた。来る日も、来る日も、「トラブルの金色ヤミ」と「fate遠坂凛」でシコり続けるだけの毎日。当時俺は遠坂凛ガチ恋をしていた(金色のヤミは導入剤として活用していた。なにが導入剤なのか、今の俺には説明出来ない)。俺は彼女でシコり続けると己に誓ったのだ。暗闇の中進む、修羅の道。そのうち、規律が習慣へと変わり、習慣が惰性へと変わった。惰性でシコる毎日。その意味とやらを考える間もなく、快感が全身を駆け巡る。俺は自慰行為に沈溺した。そして過剰な自慰行為によりちんこの皮が磨り減り、男根の形が歪になりかけた丁度その頃、俺はふと窓を見上げた。満月だった。煌々と輝く満月、それはあまりにも美しく、賢者モードの俺の心に強く訴えてきた。

 

「お月さんが笑ってらァ」

 

中学生の俺はここで果てた。12回で己の限界を悟った。悔いはなかった。これ以上自慰行為をしたら、俺が俺でなくなると本能が警告した。齢14で知った己の最果て、その日から俺は少しだけ優しくなったような気がした。

 

 

確かあれは去年の事だ。

 

俺は追い込まれていた。毎日が単調で、終わりの見えない悪夢を延々と見させられてるようだった。俺だけが辛い思いをして、周りの人間は楽しい思いをしている、なんて僻んだ想いすら抱いていた。当時の俺の安息もまた自慰行為だった。ある時俺は逃げ出したくなり、取り敢えず学校の便所に駆け込んだ。中学生の頃の記憶がふと頭の中を過ぎる。遠坂凛に想いを馳せて、邁進し続けたあの日の夜。あの日の俺と当時の俺が重なった。あの日から性の衰えを感じても尚、俺は男根を、ちんこをしごいた。「クソォ、クソォ、クソォ」 と何に憤慨し、何に哀哀としていたのか分からないが、俺は己を慰め続けた。半日以上立て篭もり、8回目の射精を終えた後、俺は自分が天性のキチガイであることを悟った。がしかし、自分の中で何かしらの変化があった事だけは確信した。

 

 

 

さて、ここで俺は君達に一つ問いたい。何故オナニーが「自慰行為」と言われるのか、なぜ快楽を齎すだけの一見生物学的に無意味な行為が、『自分を慰める行為』になり得るのか、その真理を考えた事があるだろうか。自慰行為は太古から変わらぬヒト科オスの‴業‴である。佐野ひなこが性のイデアであり、マリアが平和の象徴であるように、自慰はオスの業である。質問を変えよう。「自慰とは何か」、お前にそれが分かるだろうか。俺が答えよう。自慰とは「解」である。己の哲学や理不尽に対しての答えを求めた果てに、導き出される答えこそが‴自慰‴。ただシコるだけではそれは単なる猿のオナニーだ、それは自慰じゃない。もっと極限まで、三途の川が見えてくるまで‴自慰‴をしないとそれは「解」にはならない。その道は困難を極める。心臓が破裂しそうになり、ちんこからたまに血が出て死にそうになる。てか死ぬ。しかし、中学生の頃見た満月も、去年悟った人生哲学も、紛れもない「解」であった。それだけは確かであったように思える。

 

 

この域に達するには並大抵の覚悟では到底無理な話である。やや話が迷走してしまったが、君たちの中から、自慰の本質を見つける者が出てくる事を願うばかりだ。